綺麗

清濁のいずれもを、心から綺麗だと感じられるのが、私の唯一の才能だと思っている。遺伝子組み換えで見事に創られた大輪の薔薇も、烏が集う繁華街のゲロ塗れのゴミ捨て場も、同等に綺麗だ。心から言える。寧ろそれらはとっても似ていると、私は思う。その中間の、無印象の物も、私は好きだ。石とか、雑草とか、人間とか。あんまり綺麗だと、目が潰れるから。潰されて見える光もまた、綺麗なのだけど。

人を殺した青年に会ったことがある。その人はとても綺麗な目で、「自分を大切にすることができない人が他人を大切にできるわけがない」と叱ってくれた。人を殺すという行為は清と濁とのいずれに分類すればよいのか、私にはわからない。

美しいとか良いとか正しいとか、そういう言葉を使うのをやめた。代わりに、素敵という言葉を使うようになった。素敵、という言葉は、とっても素敵だ。素敵か素敵でないか、其処には何の基準もない。だから、反対の言葉もない。美しさの肯定は醜さの否定となる場合があるけれど、何かを素敵だと言う時に、その後ろで誰かが傷つくことはない。

綺麗、という言葉は、一層難しいと思う。だからこそ好きだ。これは私の辞書の話だから、あえて語ることではない。多分、字面とか響きとか、そういう、誰かにとっては取るに足らない、大したことのない話だ。

清も濁も綺麗だよ。清濁をありのままに認めるのではなく、清濁全てを肯定したい。全て綺麗だよって言いたい。

iPhoneの画面が、左下端を中心にバキバキに割れていて、濁点が打てない。打てないから、清音で打って、変換でなんとかしている。なんとか、なっている。