惜春

この惨めさを抜けたら、もしかしたらまた、成長をするのかもしれない。

自殺が華になるのは、制服を着られる間だけ。その時期を過ぎてしまったことが、なぜだかとても虚しくて、泣いていたことがあった。

惨めだな、寂しいなと日々思いながらも、温かい紅茶を飲んだり、眠る前に肩甲骨を解したり、棚を組み立てたりしている。憂鬱な日であろうと、身体と明日の自分を労わる。刹那的・享楽的・自暴自棄で堕落的――といった愉快な日々を過ごす気力が残されていないし、私がそのような振る舞いをしたところでもう何の華も無いので、やめておく。

何を成長と呼ぶのかわからないけれど、健やかにはなりつつある。つまり、自分の心身、命というものに対して、厚かましくなっている。健やかであることは決して悪いことではない。けれども何かがとても惜しくて、とても寂しくて、苦しい。何をしたってもう華やかじゃない。私はこれからどれほどでも健やかにでも、幸福にでもなれるのかもしれないけれど、華やかな人には、なれなかった。

若くて恥ずかしい小説を読み恥ずかしくなれるのは、今この瞬間が最後かもしれない。ポジティブな使命感で、恥ずかしい小説ばかり読む。もう何度、煙草に火をつける描写を読んだかわからない。頁と向かい合う私は、なるべく減煙を心がけてるようにしている。