生もの

洗濯機の上でねぎが干からびている。腐らないだけまだありがたいもので、これが袋入りのほうれん草ならば、土がついている部分から水っぽく腐っていって、汚いな、と思う。色が変わったり、味が変わったりして、思い通りに保存ができない。生きている人間も、生ものなので、すぐに変質する。

容姿や声色といった、変化に長い年月を要する部分ばかり外界に露出をしているから、一年前のあの人と、一年後のあの人と、まるで同じもののように見えるのだけれど、実は全然違っていて、その全然違う断片と断片とをうまく繋げられないと、裏切られたような気持ちになってしまう。人によって、いろいろな形になっていく。腐るのに時間がかかる人も、生まれ変わるのが素早い人もいる。私はとっても足が速くて、それが、寂しい。過ぎ去った旬を廃棄。

物を贈ることの意味はきっと、「大切にしやすいから」なのではないかと思う。変質しにくいから、腐りにくいから、人と違って、大切にしやすい。つまり、大切にしても、後から裏切られるような気持ちになりづらい。

日々流動する物を、変わらずに大切にしていくのは難しい。それをひとつ貫くために、いろいろな物を無傷で手放していけるほど器用ではないから、初めからなにか、変質しやすい物を持つことは諦めたほうがいいのかもしれないな、と思う。

惜春

この惨めさを抜けたら、もしかしたらまた、成長をするのかもしれない。

自殺が華になるのは、制服を着られる間だけ。その時期を過ぎてしまったことが、なぜだかとても虚しくて、泣いていたことがあった。

惨めだな、寂しいなと日々思いながらも、温かい紅茶を飲んだり、眠る前に肩甲骨を解したり、棚を組み立てたりしている。憂鬱な日であろうと、身体と明日の自分を労わる。刹那的・享楽的・自暴自棄で堕落的――といった愉快な日々を過ごす気力が残されていないし、私がそのような振る舞いをしたところでもう何の華も無いので、やめておく。

何を成長と呼ぶのかわからないけれど、健やかにはなりつつある。つまり、自分の心身、命というものに対して、厚かましくなっている。健やかであることは決して悪いことではない。けれども何かがとても惜しくて、とても寂しくて、苦しい。何をしたってもう華やかじゃない。私はこれからどれほどでも健やかにでも、幸福にでもなれるのかもしれないけれど、華やかな人には、なれなかった。

若くて恥ずかしい小説を読み恥ずかしくなれるのは、今この瞬間が最後かもしれない。ポジティブな使命感で、恥ずかしい小説ばかり読む。もう何度、煙草に火をつける描写を読んだかわからない。頁と向かい合う私は、なるべく減煙を心がけてるようにしている。

夏の前

毎年、この時期は、どこかおかしい。

「夏らしい日」がたったの一日でも訪れると、そこから瞬く間に夏へ移ろう。移ろい方があまりに激しいのでたまったものではない。これからしばらくは、「夏らしい日」が続いたかと思えば、急激に初春に戻ったかのような肌寒い日中があったり、その晩は妙に生ぬるくて寝苦しかったり、眠れずに迎えた早朝の太陽の光が、もう真夏の早朝と全く同じように真っ白で、美しかったりする。日ごとに大きなばらつきのある、しかしいずれも朗らかな気候が、日々の生活の一貫性を奪ってゆく。

毎年、春と梅雨の僅かな隙間の「夏の前」という季節が、とても好きで、とても苦手だ。

揺れるこの時期を抜けると、夏になってしまう。海の見えない場所で生活をしている限り、夏は陰鬱な季節でしかない。どこか海の見える場所へ行きたいのに、生活が、衣食住をまずやれよと、それを許さない。

夏の前は焦る。身構える。陰鬱な季節に向けて、何かを終わらせなくてはならない気がする。陰鬱な季節の息苦しさや気だるさにやられないように、今のうちに準備をしておかねばならない。

散歩道で綺麗な花を見たいならば今のうちだということを知っている。春の花はすぐに、湿気にやられて茶色く腐る。可憐なものは、春が旬。今のうちに始末をつけておかなければ、そろそろ腐りはじめるようなものが、手元にたくさんある。

夏3

十日ぶりに家に帰ったら、玄関で小さなトマトが六つほど、白と深緑の黴を被って出迎えた。資源ごみは月曜日。もう何週も、月曜日のこない一週間を繰り返しており、部屋の中には空のペットボトルが溢れるほど。
私の身体はどれくらいの液体でできているのかしら、どれくらいの空気でできているのかしら、満たされているのかしら。ペットボトルの飲み物を買うと、何故か毎回ほんの僅かに液体を残してしまうのだ。
この部屋から出てゆくごみの量、私の身体から出てゆく二酸化炭素。有害である自覚とともに過ごす日々。

被害者意識と犠牲者意識の違いについて考えながら、トマトを捨てた。意志あるトマトが復讐にくる夢にうなされるのではないかしらという愉快な空想をする。

近所の公園の大きな花壇では、暑さにやられ枯れかけた花の腐ったのが、微かに饐えた匂いを放っている。

夏2

衝動殺人犯と連続殺人犯の脳のMRIを見比べたり、犯罪白書を読み漁ったり、少年たちの箱庭を見たりなど、している間に、いつの間にか私まで何かを犯した気持ちになって、正常性とは論理的であることではなくて、単に理不尽や矛盾の存在をそのままに置いておけることなのかもしれないと、マジでクソだな、もしかしたら明日くらいに、いじめられっ子が鞄に隠し持っていたお守りのナイフでいじめっ子の喉を刺すかもしれない、だって、夏だし、と思う。

心の中でもう何十人と、丁寧に丁寧に殺してきた。ごくたまに、地元の同級生の名前をFacebookで検索かけて、今は敵ではないなと優越感に浸ることで、明日も胸を張って大学へ行ける。私に対して、馬鹿じゃん(笑)とかつて言っていた女の子、今は私と同じ大学で、こんな馬鹿と同じ大学で恥ずかしくないのかなあ、恥ずかしいねえ、馬鹿と同じでかわいそうだねえ、と思いたいけれど、六秒くらい思うけれど、ほんとのところは彼女の生存を確認した瞬間から彼女にも彼女の人生にも過去にもすべてについての興味が失せてしまった。見返したいとか、特にないし。何かを見下しても楽しくないし、つまらないことに時間を使う自分のつまらなさに嫌気がさして、何かを変えようとしても精々洗濯をしたりトイレの紙を買ったりしかできない。革命、知らず識らずのうちに起こしちゃってるのかもしれない。もしかしたら起こさない方が笑顔で地元へ帰れるのかも、わかりやすい平穏と仲良くやっていけるのかも。

今まで見てきたものも聞いたことも、あることないこと、あったことなかったこと、出会った人も、言葉を交わした人も、大好きだったことも、なかったことにすればなかったことになるなんて、思うなよ。

夏の虫に刺された部位を掻き壊して掻き壊して血が出るまで、日がな一日、人の話す声が聞こえてくる気がするというだけの理由でテレビの前にうずくまり、脳まで届く情報は専ら気象予報の音声ばかり、ただこうしてじっと息をしているだけなのに部屋はごみで溢れていくことにうんざりとしながら、また夏がやってきているのを感じている。

筆遣いと言うのだろうか。街が毎日、同じ街を題材にした違う絵画のように見え、ひどく混乱している。人や建物や信号をはじめとした諸々の輪郭が、あまりにはっきりとそれぞれに自己主張をし、全体の調和を損なっている日もあれば、すべてのものの輪郭がぼけて滲んで人間と建物の区別さえつかないような日もある。昨年は、夏になるまでに終わらせてくれと、ただ懇願していた。特に終わらせるほどのものなど、何一つ、ないのに。家の前に生える木の、葉っぱ一枚一枚の緑色がすべて違った緑色であることに眩暈を催し家から出ることができなかったが、海へ行くと思えば外へ出られた。

夏はとても暴力的な季節だと思う。今年はなるべく夏が美しくあるために、紫陽花がよく咲くといい。特に白いものを、愛している。昨年は空梅雨で、水分の足りていない紫陽花が、精々咲いているくらいであった。

底々

考えても考えても本当に欲しいものなど何一つ見つからない寂しさを埋めるための、快楽以外のものが欲しくて、あれこれ試して、やっぱりこれじゃなかったという、もう何百回目の、焼き直しの絶望を、

肥大化もせず、深化もせず、なぜなら底であったから、そして色褪せず、鮮やかにもならず、ありのままの原型を、色彩を、何度焼き直しても虚しく留めるのみの、絶望を、

はいはいと右から左へ処理する気力もなかったため、生ぬるいそれに頭の先から爪先までひたひたと浸かって、眠るまでの時間、眠っている以外の時間すべてを、じいっと、一人で、待っている。

一番大事なところだけ、せめてかわいいまるい形をしていてほしいので、目の荒い紙やすりで、必死に、削る。